誰かの葬儀に出たりすると、こんなことをぼやっと考えます。
1. 人の死に目に会うこと
長く生きていけばいくほど、
誰かの死に目に会う確率は上がっていくわけで、
生きるということはある意味で人の死に目に会っていくということなのかもしれません。
誰かが死ぬこと、特に近しい人や親しい人が死ぬことは特に辛くて、人の死に目に会うことは少なからず自分の心を消耗するものです。
それでも生きていく中で、「もう誰かの死に目には会いたくないな」と思いながら日々を過ごして、それでも誰かと死別する。
悲しんでその悲しみに慣れた頃に、また誰かの死で悲しんでそれにも慣れる。
そうやって心が折れたり回復させたりを繰り返す中で、人生に対してお腹いっぱいになる頃に、今度は自分が死ぬ側になるのかなと思ったりします。そう考えると、自分もいつか死ぬという事実を少しだけ受け入れやすくなる気もします。
2. 誰かが生きていてくれて嬉しい
そういう避けられない流れの中で、「生きていること」や「誰かが生きていること」の尊さを再認識するわけです。
日々を生きていると、どうしても命のありがたみというのを忘れがちになるもので。
「大切な人」は人によって違っていて、親かもしれないし友人かもしれないし恋人かもしれないし夫(妻)かもしれないし子供かもしれない。
いずれにせよ、誰かが生きていてくれて嬉しい。だからこそ、その誰かが死ぬのが悲しい。
誰かの死を経験するからこそ、人は死ぬということが身近に感じて、やっぱり今生きていることがかけがえのないものに感じる。
その繰り返しの中で人は生きているのかなと思います。
3. 今生きている目の前の人達を尊いと感じる
誰かが死んで、でも自分は生きていて。
悲しんだり落ち込んだり、そのぶん今生きていることや今生きている人に感謝したり。
その繰り返しの中で、その流れの中で、いつしか自分も死んでいくのだと思うわけです。
長く生きていけばいくほど、
誰かの死に目に会う確率は上がっていくわけで、
生きるということはある意味で人の死に目に会っていくということなのかもしれません。
そう考えると、生きることは一見してネガティブなものに捉えられるけれど、
やっぱり今生きている目の前の人達を尊いと感じるわけです。
その人達と一緒に過ごせることで、まあ、人生悪くはないかなあと思うわけです。
4. まとめ
生きていく中で、人の死に目に会うと悲しんだり落ち込んだりして心が消耗して、他の生きていく人達と接する中でそれが少し回復して、けれど時々人の死を思い出してしまって。
そうやって繰り返す中で、決して悲観的ではないけれど心が疲れていく部分もあって、その心が落ち着く頃に自分も死んでいくのかなと思うと、生き物の命の流れというか大きな循環していく流れを感じるわけです。