「知らないことは恥ずかしいのか?」についてです。
1. 「知識のない人」への対応
例えばその場に5人の人がいて、そのうち1人が残りの4人と比べて圧倒的に物を知らない。
この1人を仮にAさんとしましょう。
このAさんの知識のなさをどのように捉えるか?
Aさんにもわかりやすいような説明や話し方をする。
これが1つのパターン。優しい世界ですね。
物事を知らないAさんが悪い。全体の議論が滞るので4人のレベルで話す。
これがもう1つのパターン。やや厳しいご回答。
さて、この集団の中にいる「知識のない人」への対応って、どっちが正しいのでしょうか?
「Aさんにもわかりやすいような説明や話し方をする」というのは要するに知識のない人に集団が合わせるということです。
一方で「物事を知らないAさんが悪い。全体の議論が滞るので4人のレベルで話す」というのは個人が集団の知識レベルに合わせるということです。
年功序列の制度が先行き不安になったり、「ゆとり世代」といった言葉。世間を騒がせるパワハラ問題。
社会背景として集団に個人が合わせるといった姿勢に異を唱える風潮が高まってきたのかなあと思います。
こういった社会では、どちらかというと「知識のない人に集団が合わせる」というスタンスがやや支持されてきているのかなと考えます。
実際、新人教育に手を焼く上司・先輩も多いのでは。
2. パーキンソンの凡俗法則
一方で、「知識のない人に集団が合わせる」というスタンスは合理的でない場合もあります。
特に会議など、何かを決めるときに下のレベルに合わせていては議論が滞るわけです。
パーキンソンの凡俗法則というのがあります。
高度な知識が必要な議題ほど参加できる人が少ないため議論の余地なくさっと決まる。
反対にどうでもいい万人向けの話題ほどいたずらにみんなが参加していろんな案を出すため決定に時間がかかるという法則です。
「議論の場に立ちたいならそれ相応の知識を持ってからのぞむべき」という考えも確かに一理あるわけです。
3. 集団の風通し
ただ、知識のあることが前提の集団ってのは風通しが悪くなりやすいです。
知識のない人へ割く時間が短くなってしまい、知識のない人が議論に参加できなくなるからです。
やっぱり知識のない人も参加できるような場って貴重だと思うわけです。
4. まとめ
さて、そんな感じで、知識に差がある集団での対応というのは大きく2つあります。
・知識のない人に集団が合わせる
・個人が集団の知識レベルに合わせる
前者は風通しはいいですが議論が滞る恐れがあります。
後者は専門的な議論はできますが風通しが悪い。
で、この2つを象徴するのが「知らないことは悪いことなのか?」という問題です。
現代の日本はどちらかというと「知らないことを恥じない」文化が増してきているように思います。
要するに「知らないから教えろ」という文化。
知ってる人からしたら「いや、自分で調べろよ」と思うでしょうし、知らない人からしたら「いや、そんなの聞いてないし」になるわけです。
まあ、どっちも一理ある。
で、「調べ方は教えるけれど調べるのは自分で調べて」っていう方法で時間を効率化するってのが落とし所になるのかなと思います。
5人中、知識がない人が1人いる会議なら、前提知識の情報ソースや経緯は説明しつつ、細かな部分は端折る。
知識がないことをは恥ずかしいことではないけれど、知識がないぶん議論が振りになることもまた必然といった感じ。
知識のある人は知識のない人にある程度「教える」義務はあるけれど、その教えを自分のものにする努力が教えられる側には必要なのかと。