カウボーイビバップ(Cowboy Bebop)についてです。
適宜ネタバレも含みますのでご了承ください。
Part15 マイ・フェイバリット・シングス
エドはいままで苦労したことがありません。
ひょっとしたら、ホントはあるかもしれませんが、ぜんぜん覚えていません。
どうしてかというと、おもしろそうなことしかしないし、おもしろくなさそうなことのなかにも、ちびっとは面白そうなことを発見して、ビリビリするからです。
でも、それでもつまんなそうなときは寝ます。
寝たら、夢の中でコロコロおもしろいです。
おわり。スパイク「どこにも力なんか入れてない。お前の無駄な力を利用しただけだ。力の流れをコントロールするんだよ。そのためには、どんな動きにも対応出来るように全身の力を抜いて、そう、水みたいになるってことだ」
エド(カウボーイビバップ よせあつめブルース)より引用
解説
終盤に自らビバップ号を降りたエド。
クルーの中でも絶妙な距離間である意味で最も自由な存在だったと思います。
スパイク・ジェット・フェイが過去に引っ掛かりを持つ中、エドのみ今を楽しんでいるような印象でした。
だからこそエドはビバップ号から降りたのだと思います。
エドにとってビバップ号は醒めない夢のような実感のないものでもないし、帰る場所のようなとどまる場所でもなかったのでしょう。
ビバップ号はエドにとって絶え間なく楽しむ「今」の1つの通過点でしかなかったのだと思います。
そういった意味で、他のビバップ号クルーとは反対の生き方・信条を持っていたともとれるエド。
よせあつめブルースにおける「マイ・フェイバリット・シングス」においてもその傾向が読み取れます。
スパイクやジェットのパートがメディア規制や尖った表現を攻撃する視聴者への皮肉を込める中、エドの「マイ・フェイバリット・シングス」のパートはそういった現状の中で表現を工夫することの楽しさを説いているように思えます。
「おもしろくなさそうなことのなかにも、ちびっとは面白そうなことを発見して」というのは、まさに規制の中でその裏をかくような技法を創り出すおもしろさを指しているのではないでしょうか。
実際カウボーイビバップのよせあつめブルースも、規制を批判するスタイルがあったからこそ視聴者の中で印象に残った部分があると思います。
このためカウボーイビバップもある意味で過剰な規制の中で評価された作品とも言えます。
補足記事