「鋼の錬金術師」の後味の悪さ
完結してもなおファンが多い「鋼の錬金術師」。
ダークファンタジーの要素も含み、子供だけでなく大人も楽しめ考えさせられる作品ですね。
鋼の錬金術師で後味の悪い話といえばキメラにされたニーナの話がよく挙がりますが、
OVAである「盲目の錬金術師」はハガレン史上最も後味が悪く、同時に深い話だと思います。
今日はそんな「盲目の錬金術師」についてです。
「盲目の錬金術師」とは?
「盲目の錬金術師」とはアニメ「鋼の錬金術師」2期におけるOVA作品です。
ハガレンはアニメオリジナル展開の1期と、原作である漫画に忠実な展開の2期があります。
双方は関連性のない独立した話になっていて、2期の方がどちらかというとマイルドな展開になっています。
全体として後味の悪さが抑え気味の2期だからこそ、「盲目の錬金術師」の後味の悪さは際立っています。
「盲目の錬金術師」の後味の悪さの解説
アル「生きてるの?」
ロザリー「生きていると言えるのかどうかはわからない。
もうずっとロザリーはこのままよ。
でも、この体の中にいるのが本当にロザリーかどうかは、誰にもわからない。
もしかすると、彼女ではない何かがいるのかもしれない」アル「本物、だよ」
ロザリー「うん。だから、ここにいるのが本物のロザリーだから、私は、この家の本当の子供にはなれないの」
アル「エミ・・・」
ロザリー「でもエミに戻ったら、また孤児院の暗い片隅で、木の棒竹をおもちゃに過ごさなきゃならならない」
「OVA 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST #01 盲目の錬金術師」(Abema TV)より引用
本編で取り扱われますが、人体練成をどんなにやっても死んだ人は生き返りません。
ゆえに、この「ロザリーと思われるもの」の中にある「何か」も、生前のロザリーの魂ではないでしょう。
しかし、
自分の目を犠牲にしてまで人体練成を行ったジュドウ。
彼の思いを汲み取って人体練成を成功したと嘘をついてしまったハンベルガング家の主人。
もう後には引けないわけですね。
彼ら・彼女らは「ロザリーと思われるもの」を「ロザリー」としていくしかないのです。
さらに言うと、
「人体練成でも死んだ人を生き返らせることはできない」というのはエドとアルも物語の中で学んだことです。
エドとアルが人体練成をやったときと同様に、ジュドウもおそらく「正しい理論でやれば死者を蘇らせることができる」と思っていたことでしょう。
そして代価として目を持って行かれ、人体練成の結果を確認できないまま今に至ります。
凄腕の錬金術師であるジュドウですらその状況です。
錬金術の知識のない屋敷の住人達からしたら、「ロザリーと思われるもの」の中に本物のロザリーの魂が入っていることを否定はできません。
この、「ロザリーではないのかも」「ロザリーかも」という2つの可能性の葛藤がずっとに続いているわけですね。
われわれ使用人全員、彼を騙しているのですよ。
そしてこれからも、騙し続けるでしょう。
それでみんながいつも通りなら、それでいいのです。
さあ、お部屋に戻りましょう。ロザリーお嬢様。「OVA 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST #01 盲目の錬金術師」(Abema TV)より引用
「騙している」という表現を素直に使う執事。
そして「ロザリーお嬢様」とエミのことを呼称します。
アル「みんないい人だね」
エド「ああ。だけど、みんな救われねえ」「OVA 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST #01 盲目の錬金術師」(Abema TV)より引用
そんな人々に対しエドは「救われねえ」」と複雑な表情をします。
しかしここで考えさせられるのが、
エドはハンベルガング家の対応をどちらかというと否定的に見ています。
けれどそれはあくまでエドの視点でしかなくてそれが正しいかどうかは別だということです。
「ジュドウに正直に話す」これは一見正しいことのように思えます。
しかし、それでみんなが幸せになれるかと言うと微妙です。
まず、ジュドウは一生ロザリーを生き返らせられなかったという挫折と、なのに目を持って行かれたという後悔、さらにはみんなに人体練成は成功したと嘘までつかせてしまったという申し訳なさ、今まで信頼していた人々への不信。
明らかにジュドウにとって心穏やかな状態ではないですね。
そしてエミの立場も危うくなります。
本人が言うように孤児院の戻る可能性も否定できません。
そうやって人間関係が乱れたことで、屋敷の人々もこれまで通り幸せかと言えば・・・
ハンベルガング家がジュドウを騙す気持ちはわかりますよね。
でももちろん、その状況を第三者としてみれば、やっぱりエドのような表情をしてしまう。
まとめ
「救われない嘘」をやめることができないハンベルガング家。
後味は悪いですが、非常に深い話ですね、「盲目の錬金術師」は。
ちなみに「盲目の錬金術師」にはもう一つ仮説があって、
「ジュドウも人体練成に失敗したことは薄々気づいている説」です。
これは作中、明確な描写はないのであくまで仮説なのですが。
でもこう考えると物語の後味の悪さがさらに増します。
両目を失ってまで行った人体練成。
ゆえにロザリーは蘇ったと嘘をつき続ける周囲の人々。
そんな周囲の人々の気遣いを察し、
騙されたフリをしているジュドウ。
騙せていると思っている屋敷の人々。
いや、もしかしたら、屋敷の人々も「ジュドウが騙されたフリをしてくれている」と薄々気づいている可能性もあります。
とてもややこしいですね。
でも、このややこしさが「盲目の錬金術師」の魅力であり、人間の心をよく表わしています。
ジュドウは人体練成が成功したと思っている。
屋敷の人々はジュドウを騙している。
でも実はジュドウは人体練成を失敗したことに薄々気づいているかもしれない。
だから騙されているフリをしている。
実は屋敷の住人達もジュドウが人体練成を失敗したことに気づいているかもと思っている。
だから「騙されたフリをしてくれているジュドウ」に対して、屋敷の人々は「騙せているつもりの自分達」を演じている。
こうやって、
互いの「かもしれない」が合わせ鏡のように無限に続きます。
「人体練成は失敗した」誰かが一言そう言えばこの合わせ鏡の騙し合いは終わります。
でも、それはできません。
それを言った瞬間に今日までの平和な生活が終わってしまうからです。
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